小峰ラタン株式会社

オミネラタン

[業種]大分類:製造業 中分類:家具・装備品製造業 小分類:その他の家具・装備品製造業

会社紹介 PICKUP特集

伝統の籐工芸にこだわり時代に即した道具文化を生む

厳選した材料とこだわりのもの作りの職人工房

“ラタン”とは籐(とう)の英名、rattanのこと。小峰ラタンは、昭和28年(1953年)から墨田区押上で伝統的な籐工芸を続けてきている工房的会社です。昭和7年(1932年)生まれの創業者、小峰尚(おみね・しょう)氏は1991年に黄綬褒章を授章した東京都伝統工芸士で、現在も製作を続けている籐職人です。1961年生まれで現社長の小峰正孝氏は、尚氏の子息で2011年に同じく東京都伝統工芸士に認定された籐職人です。
同社の製品は完全な受注生産ですが、製作するのはアームチェア、ダイニングチェア、スツールをはじめとした各種の椅子が中心、このほかベッド、枕、かご、ステッキなども作ります。本物の籐家具が持つぬくもりと肌触り、つや、耐久性にこだわり、受け継がれた人に喜ばれるモノづくりの心を何よりも大事にしています。
同社が家具づくりに主に使うのは、トヒチという種類の籐のうち太民(ターミン)と呼ぶ28ミリ以上の太さのもので、これが曲線を持つフレームには最適です。しかも、その中でもボルネオの限られた地域でしか採れない、最高品質の希少材を使います。
「素材がよくなければだめ。材料を手に入れるだけで大変ですが、だからこそその分手間もかけて作ります」
と小峰正孝氏は話します。厳選された良い材料を使うことが、伝統の技が活きる籐家具づくりに不可欠な条件と考えています。
籐は東南アジアにだけ育つヤシ科のつる性植物で、他の樹木に絡みついて成長し、その長さは200メートルを超えることもあるそうです。内部には通気性のある繊維質が詰まっていて柔軟性があり、木材に比して格段に軽量でありながらと強度と耐久性があるという非常に優れた天然素材ということができます。




日本でも、1000年以上前から籐の表皮を細く挽いて作る籐皮(ピール)が、弓やなぎなたといった武具などの、巻いて締める部分に多く用いられ、江戸時代に入ると編んで作る生活用具に用途が広がり、編笠、籠、敷物、小物類などが作られました。籐家具の製造技術が日本に伝わったのは明治に入ってからで、椅子の文化とともに籐椅子がハイカラな生活スタイルとして広がりました。こうした長い歴史の中で日本独自の籐工芸が育ち、籐職人の技も継承されてきました。そして、昭和の中ごろから後期にはラタンブームが起こり、籐家具のバリエーションも広がったのですが、同時に海外からの安価な籐製品が流通するようになり、国内メーカーと職人は次々と廃業していくという状況になってしまいました。
しかし現在、天然素材と職人の技による手作りの価値が見直される中で、日本で育まれた籐工芸の技と籐家具も改めてその価値が再評価されはじめています。次の時代にこの伝統の技を残していくためにも、貴重な存在になった職人工房の小峰ラタンの活躍に期待が寄せられています。

受け継いだ職人技でつくる日本の籐家具

  • 籐椅子は籐工芸の集大成

    籐家具は1つ1つ手作りする工芸品です。中でも椅子は、曲げ、組み、巻き、編みといった籐工芸の技を集大成したもの、同社の高い技術が光ります。

  • 文化をつくるという気概

    籐工芸品は自然素材を使った身近な暮らしの道具であり、長い歴史が培った文化と考えています。それを受け継ぎ、時代に即してつくり続けます。

  • 東京都伝統工芸士の技術

    東京都は優れた伝統的技術を有する職人を東京都伝統工芸士として認定しています。同社代表は2代にわたってこの認定を受けています。

実用性に重きを置く籐家具作りを百貨店でアピール

小峰ラタンの陣容は現在、社長の正孝氏夫婦、父尚氏夫婦、そして尚氏の14歳下の弟寛(かん)氏の5人。尚氏は、東京大空襲の後、籐職人だった母方の叔父の増田忠治氏とともに信州に疎開したのですが、その時暮らしの道具作りに見せた叔父の技に感心して弟子入りしたのだそうです。代々続く籐職人の家系といえます。
尚氏は、人の役に立つものを作るのが職人の仕事と考えていますが、正孝氏も、
「いつも人に喜ばれるモノづくりを心掛けたい」
と言い、ともに、籐工芸といえども美術的価値よりも実用性に重きを置くことを大事にしています。
「父は仕事には人一倍厳しく熱心で、私たちが作ったものの出来が悪いとゲンコツをもらいました。せっかちでしたが決断力と対応力がありましたね」



そう振り返る正孝氏が同社に入社したのは20歳の時。社長の尚氏が師匠、叔父の寛氏が兄弟子でした。とはいえ、最初の5年間は取引のあった大阪の材料問屋に入ってのいわば業界勉強、兼社会勉強。でも、ここで海外の籐事情を知ったこと、東京の業界を外から眺めたことが、後々役に立ったと正孝氏は言います。
この大阪での勉強中に、以前から懸念されていた、海外からの安価な籐製品の流通が家具量販店で一層進んでいました。
「東京に帰ってくる頃には当社の取引問屋もすっかり減ってしまい、販路が安定しなくなっていたのですが、代わって百貨店から実演販売や伝統文化催事の声がかかるようになっていました。このお客様と直接話ができる百貨店での仕事は、父にとってもやりがいになったのです」
正孝氏も籐職人としての仕事を修得しながら、尚氏とともに都内ばかりでなく各地の百貨店に出向くようになりました。その後現在に至るまで、この百貨店での実演と催事は、リピートオーダーや紹介と並ぶ重要な受注機会となっているのです。1つの催事の開催期間はほぼ1週間、これが多い月には重複しながら4、5本入るので、サンプル、材料、道具を持ち込む実演の日程を組むのはなかなか大変です。

時代の要望に合わせたもの作りが生き残りの絶対条件

「私たちは、籐の中でも希少材といわれる材料を使います。品質は最高ですがジャングルの奥地でしか採れず、とげがあって扱いにくく、高額です。希少材を使うのは日本だけで、なぜそんな材料を使うのかと不思議がられますが、その素材にこそ値打ちがあるのです。私たちは、良いものに手間をかけて製品に仕上げることにこだわります。このこだわりがなくなったら、日本で籐家具を作る意味はありません」(正孝氏)
その籐材料はほとんどがインドネシアからの輸入ですが、輸出制限によって年々入手が困難になっていて価格も上昇しているようです。
「大阪の業者のパイプを使って、毎年現地に行って買い付けの交渉をしています。そうしないと私たちが使える材料は手に入らないのです。修業時代の経験が生きました」
と正孝氏は苦しい材料入手の現状を説明します。それでも籐家具作りでのこだわりを捨てるつもりは毛頭ありません。
「東京都の伝統工芸士になったことが励みになりましたが、責任の重さも感じます。作ったものを使っていただいて、よかったと喜んでいただけるのがこの仕事の一番のやりがいです。こだわりの良さが伝わることが何より嬉しいのです」
東京の籐工芸は1986年に「東京籐工芸」として東京都伝統工芸品に指定され、伝統工芸士に認定される籐職人も増えましたが、職人の減少は止まっていません。籐事業協同組合もありますが、当初38社あった会員も現在は10社程度になっているということです。
「都内の職人の数は、組合に入っていない職人を入れても数十人でしょう。若い職人を育てないといけませんが、それもなかなか難しい環境です。私は、自然素材で身近な暮らしの道具を作ることがこの仕事の原点と思っています。だからこそ、その時代の要望に合わせたもの作りが生き残りの絶対条件です」
お客様の声を聞きながら籐工芸の文化を残していきたいと、決意を固める正孝氏でした。

動画で見る「小峰ラタン」

≪ PICKUP企業特集一覧に戻る

連絡先

住所〒131-0045 東京都墨田区押上2-10-15
TEL03-3623-0433
FAX03-3625-7874
Emailメール送信
WEB ホームページ 
会社紹介 PICKUP特集